稲毛のプロフィール
稲毛区は、1992年(平成4年)に千葉市が政令指定都市に移行したことにより誕生しました。
千葉市の北西部に位置する稲毛区は、東京などへのアクセスが良く、市内で最も人口密度が高い区で、多くの文化・教育施設が立地する文教の街です。
推計人口 | 161,464人 |
世帯数 | 75,461世帯 |
面積 | 21.22k㎡ |
人口密度 | 7,609人/k㎡ |
区の色 | ブライト・イエロー(濃い黄色) |
稲毛区のあゆみ
稲毛区は、比較的平坦な台地上にあり、昭和30年代に大規模な埋め立てが始まるまで、国道14号付近に海岸線がありました。
遠浅な海岸には県内初の海水浴場が開かれ、東京からの鉄道が整備されたこともあり、海水浴や潮干狩りを楽しむ人々で賑わいました。
また、明治後半以降は避暑地として人気を呼び、大正の実業家でワイン王として有名な神谷伝兵衛氏などの別荘・別邸が次々と建てられた他、島崎藤村や森鴎外などの文人墨客が訪れました。
1926年(大正19年)の関東大震災で多く建物が崩壊し、昭和30年代以降の大規模な埋め立てにより海岸線は大きく表情を変えましたが、一部の建物は保存され、防風林として植えられた松林と共に当時を偲ぶ事が出来ます。
昭和40年代、千葉市内は東京のベッドタウンとして、多くの大規模住宅団地が建設され、稲毛区も人口が増加しました。
現在は、千葉大学・千葉経済大学・敬愛大学や市教育センターが立地するなど「文教の街」を特徴に持つ歴史と文化の香り高いエリアとして成長を続けています。
「稲毛」の名付け親
「稲毛」という地名の由来については、諸説あるものの確定した情報は今のところ無いようです。
その内の一つに、千葉市稲毛区の黒砂に、今は使われていない小字(こあざ)「稲毛台(いなぎだえ)」があり、それが古代日本の官職名である「稲置(いなぎ)」に由来するものとする説があります。
他にも、その由来を「稲城」(稲を積んで作る柵)とする説や、「稲木」(束ねた稲を棒などに架けたもの)などがあるようです。
稲毛には、明治以前には多くの水田や畑があったことから、このように「稲」に関係する名前になったと考えられています。
文人墨客たちも訪れた、昭和のリゾート地
明治初期まで農業を中心としてきた稲毛ですが、1888年(明治21年)に千葉県初の海水浴場が開かれます。
その後、1899年(明治32年)には現JR稲毛駅が開通し、さらに1921年(大正10年)には京成稲毛駅が開通しました。
こうして東京方面から海水浴や潮干狩りに来る人々が増えて、海岸には多くの旅館や店が立ち並ぶ保養地となりました。
その中でも、別荘風旅館「海気館」には、島崎藤村、徳田秋声、森鴎外、上司小剣といった文人墨客たちも滞在し、当時の文学作品の中でもその名前がたびたび登場しています。
このように稲毛の海は、交通の便の良さもあり保養地・別荘地として東京方面の人々から人気を博しました。
軍郷地から住宅地へ
1931年(昭和6年)の満州事変に端を発し、1937年(昭和11年)には日中戦争が勃発・長期化し、その影響を受けて軍事関連の施設や工場が多く作られるようになりました。
稲毛には、陸軍歩兵学校や千葉陸軍戦車学校、千葉陸軍防空学校など陸軍の学校や施設が多く集まっていました。
現在でも、千葉経済大学内にある旧鉄道連隊材料廠煉瓦建築などの跡地から、当時の面影を偲ぶことが出来ます。
そして終戦後の1961年(昭和31年)からは海岸の埋め立て工事が始まり、急激に人口が増えた東京都心のベットタウンとしての役割を担う、現在の稲毛の形へと変貌を遂げました。
文教地区としての稲毛
稲毛区には、千葉大学・敬愛大学・千葉経済大学と三つの大学がある他、複数の高等学校や市の教育センターもあり、千葉市内における文教地区となっています。
その中には、ライトノベル原作の人気アニメ「やはり俺の青春ラブコメは間違っている。(俺ガイル)」のモデルとなった「千葉市立稲毛高等学校」もあり、同アニメの聖地として有名です。
また、放射線医療に関する国の研究機関である「国立研究開発法人量子科学技術研究開発機構(旧放射線医学総合研究所)」など、最先端の研究施設を有しております。
稲毛の駅
JR総武線快速と、JR中央・総武線各駅停車の、2つの路線が乗り入れているJR稲毛駅は、その近くに多くの団地や住宅街があり、首都圏近郊のベッドタウンとなっています。
東京方面へは、総武線快速で「JR東京駅」まで約35分、また千葉方面へも、同じく総武線快速で「JR千葉駅」まで約4分と、利便性の高さが人気です。
また、JR稲毛駅に隣接しているペリエ稲毛や、駅から徒歩約4分の距離にあるイオン稲毛店では、ちょっとしたお買い物から、じっくりとショッピングも出来てとても便利です。